General

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I found these photos from the recent past and decided to post them in a slide presentation. I call it simply MEMORIES, which are...

The stage isn't as big as that of the Final Four, but that doesn't lessen the importance and meaning of the All-Native District Basketball...

It’s written, “Yet there is one thing wrong; you don’t love me as at first! Think about those times of your first love (how...

アルティクの女の子 彼女の名前は アンドレア コンプコフといいました。新入生数人と一緒に彼女がべテル・テンプル教会の玄関ホールにいたのを見たのを思い出します。彼女はコルドバ高校を卒業して、シアトル大学で看護学部の奨学金を受けました。卒業後はシアトルでピル・ヒルと呼ばれている病院の看護士として仕事をしていました。誰かから、彼女が看護士だと聞いて知った私は、自分が糖尿病であることを彼女に話しました。今から思えば、おろかで未熟だったと思います。でも自分のハンディを周りの人に知らせるのはよいことだと思っています。いつか 助けが必要となったときに、助けてもらえることもありますから。 ああ、聖書学校は本当に楽しかった! 教授たちの中には牧師や、もとインドネシアの宣教師だった人たちがいました。学部長は第二次世界大戦の太平洋戦区で戦った退役軍人でした。授業の中で、彼らのリアルな人生の体験談が語られました。彼らは聖霊様にしか与えることのできない心の興奮を感じながら、私ちに聖句を語られました。授業中、泣いたり笑ったり、祈ったり、沈黙したり、そして、歌うこともありました。チャペル礼拝は15分から20分と短い時間でしたが、常にパワーに満ちていました。ここの教授たちは 一般の大学の教授たちとは明らかに違っていました。彼らは試験の前に、質問と答えを教えてくれましたが、それにもかかわらず 私たちは勉強したものです。アンドレアと私は他の学生たちとコーヒー休憩を一緒に過ごして、学びのことで討論をしたりして興奮したものです。 聖書学校に入って最初の1年半は、アンドレアにロマンチックな恋愛感情を持ったことはありませんでした。彼女は私にとって みことばのことや、神様が私に日本に宣教師として召してくださっていることなど自分の気持ちを分かち合うことのできる 単なる近しい友達でした。私たちの友達としての関係は、神様のみことばを中心にした霊的なレベルでの友人関係だったのです。神様はこのような霊的なことから人間関係がはじまることをすべての人に望んでおられると私は信じます。 私はタコマニュース・トリビューン新聞社に勤めながら聖書学校に通っていました。聖書学校に入学した夏、私は貯まった休暇を利用して、べテルから宣教師として遣わされているジョージとメアリ-ベス・フレイジャー夫妻のいる九州に1ヶ月尋ねることになりました。この年、私は 心の中でベスト・フレンド、アンドレアへの気持ちが高まっているのを感じていました。 神様の導きにそむいた選択をしてしまうことを恐れて、私はある日 彼女に「この夏日本に行くことにしているんだけど、たぶんすごく忙しくなると思うから、連絡は取れないと思う」言いました。  彼女に対して抱いている「感情的な」気持ちを終わりにするいい方法だと思ったのです。 日本に来た私は、予想通り、忙しかったです。ジョージ先生は 毎日のように 仕事を手伝わせてくださいました。伝道集会、キャンプ、聖書研究会、牧師会、説教、トラクト配布、建築作業などなど、全範囲に及ぶ奉仕です。私の心は圧倒されました。1975年の当時は パソコンもEメールも、携帯電話もテキストメッセージもない時代です。国際電話は高いし、実際にかけることはできません。ジョージ先生が見せてくださっているすべてのことを誰かに話したい・・・ベストフレンドに手紙を書く時間はないと言ったのに、そのアイデアは吹っ飛びました。アンドレアは私が手紙を書いた初めての人です。なぜなら、彼女は私の心を知り、理解してくれるからです。自分のことを知り、理解してくれる人がいることを 本当にうれしく思いました。 日本滞在の1ヶ月間に ジョージ先生は 長期宣教師となるために必要なポイントを教えてくださいました。そのポイントは今でも正当なものだと思っています。先生は私が独身であるのを知って、聞かれました。「ガールフレンドか真剣に交際している女性はいますか?」私は「No」と答えました。この先輩宣教師は、もし私が宣教師として日本に来るのなら、 結婚して来るのがベストだと アドバイスをくださいました。私がなぜですかと理由を尋ねると、ジョージ先生は、日本の教会は 独身男性より 独身クリスチャン女性がずっと多い。もし、私が独身の宣教師として日本に来たならば、教会内の独身女性たちは、おそらく私のことで競争したり、争いをおこすことになるかもしれない。若い独身女性の間に大きな亀裂が生まれ、あきらめから教会を去る人も出てくるかもしれない。先生は、こういって、もし私が真剣に交際している女性がいないのなら、海外に遣わされる前に、まず結婚することを考えるべきだといわれました。そして、もしそのような人がいないのなら誰かを紹介しますよとまで言われたのです。 夏の休暇は終わりました。1975年の9月、私は帰国して、職場に戻り聖書学校の2年目に入りました。次の月に 私はアンドレアに 夏の経験について分かちあいました。そのとき、私は はじめて何かを感じました。彼女の存在がこれまでになく強く、思いの中にあったのです。その月、私の気持ちはアンドレアにくっつきました。そして、彼女の職場から家までたったの2ブロックという近い距離なのに 彼女を送るために、タコマからシアトルまで40マイルも車を飛ばせて迎えに行ったりしたものです。それも一回ではなく、何度もそうしたのを記憶しています。車を降りて助手席にまわり、ドアを開けるとき、「神様、車から玄関のドアまでの間 彼女の手をつないでもいいですか?」と神様に尋ねました。神様の明確な答えは 今でも覚えていますが それは「NO」でした。ある時は、神様に「彼女のほっぺたに小さなキスをしてもいいですか?」と聞きました。答えはまたしても、「NO」です。3日間連続、夜にベッドの中で天井を見つめながら、神様にこう話したのを覚えています。 1晩目「主よ、彼女は本当にすばらしいです。彼女のことが本当に好きです」 2晩目「主よ、私は彼女に惹かれています」 3晩目「おお主よ、これ以上心に留めていられません。彼女のことを愛しているのだと思います!」 私は自分の霊が感情を使って、神様ご自身が私に与えてくださったアンドレアへの愛を告白したことを とてもうれしく感じました。 私は彼女への結婚のプロポーズを計画しました。そのころ、コーリー・テン・ブーンの人生がHiding Place( わたしの隠れ場)という題で 映画化され、上映されていたので、土曜日の午後 彼女を誘って見に行くことにしました。映画の後、キャンドルライトのディナーに行って、プロポーズしようと思ったのです。映画「わたしの隠れ家」は非常に有名な映画で 「よい席を取るためには早めにご来場ください」との宣伝から、アメリカ北西部のすべての映画館では 長蛇の列ができていました。私たちは旧道ハイウェイ99号線にあるルイス&クラーク劇場に、上映1時間以上前に到着しました。けれどもどうしたことか、列がないのです。まったくありません。その日は雨が降っていました。外に出て散歩をすることもできません。1時間も車の中に座っていることもでません。それで、私はそこでプロポーズすることにしました。彼女に、もし私と結婚してくれるなら、一緒に私の妻として日本に来てくださいと言ったのです。アンドレアは、すごく喜んでくれました! 大きく「YES」と答えたときに、車の天井に頭がほとんどぶつかるほどでした。私はそのとき初めてアンドレアにキスをしました。素敵でロマンティックなディナーの後、アンドレアはべテル・テンプル教会の土曜の夜の青年の集会に行きたいと言いました。それで私たちは教会のあるダウンタウンに向かい、車を停めて手をつないで、教会の玄関ホールに入りました。 礼拝堂の中にいた人が、ドアが開いて閉まる音を聞いて、振り向いたとき、彼らは今までに見たことのなかった光景が見えました。ニルスとアンドレアが手をつないでいて、二人の顔は光り輝いていたのです。 私たちは聖書学校の学期が終わった後 6月に結婚式をあげようと思いました。けれども、誰かが「なぜそんなに長い間待つの?」と言いました。それで、3ヶ月予定を早めてアンドレアの父の50才の誕生日である1976年3月20に 結婚式を挙げました。彼女が父親と一緒に教会の礼拝堂に入ってきたとき、私は彼女に歌いました: 「アンドレア、I love, I love, 」と 1976年の後半、私たちが聖書学校の最後の年である3年目をむかえたとき、ワシントン州のカーネーション市にあるべテル・タバナクル教会の牧師として奉仕をするようにとたずねられました。私たちは1年間という約束でそれを受け入れました。それは、主が、日本での宣教師の奉仕のために私たちを準備してくださっていたからです。私たちの娘、リサは、私たちがべテル・テンプル聖書学校を1977年の5月に卒業した 2週間後に生まれました。 アンドレアと私は宣教地でアル日本で38年間を過ごしてきました。まるで、昨日のことのようです。時間のたつのは本当に早いですが、思い出は残り、私たちの霊と魂に活気と元気を再び呼び起こしてくれます。

ONE LITTLE ALUTIIQ GIRL Andrea Kompkoff was her name. I remember seeing her in the foyer at the old Bethel Temple with several other new...